PART2
2PAC (K.Shinkai)
2Pacについては前号のトリビュート記事(注)で詳しく書いているので経歴を簡単に振り返るだけに止めたい。Tupac Amaru Shakurは71年、ニューヨーク生まれ。そういえば最近世間を騒がせた例のペルーの人質事件の犯人もトゥパク・アマル革命運動(MRTA)という名前で、2Pacの本名と同じである。これは16世紀にスペインが侵略してきたとき、最後まで抵抗し続けた南米の歴史的英雄・インカ帝国最後の皇帝から取られた名前である。彼の母親は急進的黒人運動組織BIack Pantherのメンバー。
Tupacは幼い頃から詩や演劇に興味を示し、それに気付いた母親がハーレムの劇団に入団させ、12歳にしてアポロ・シアターの舞台に立っている。しかし演劇仲間である親友が銃の暴発事故で死んでしまったのを目の当たりにしてショックを受け、学校を中退して単身西海岸に赴き、ストリートに生きるようになる。MC NYというダサいステージネームでつるんでいるうちにDigital Undergroundのツアーメンバーのオーディションを受け、一発で気に入られる。DUの一員として活動する傍ら91年にはソロでもデビュー。但しまだDUのメンバーのサポートを受けるような形ではあった。
翌92年、Tupac初主演映画「Juice」が大ヒットしたことで彼は一気にスターダムに駆け上がる。しかし人気を得ると共に悪い評判も蔓延し、この頃既に時のクエール副大統領に「社会悪である」と批判されている。93年にはセカンド・ソロアルバムを大当たりさせ、映画でもJanet Jacksonと共に「Poetic Justice」で再び主役を演じている。しかしこの年3度暴行事件を起こして禁固刑を受け、性的暴行と非番警官への発砲の2件で告訴されている。94年、映画「Above The Rim」に出演。自分名義の作品は出ていないものの、各アーティストの作品へのゲスト参加を盛んにこなした。
そして11月30日、レコーディングスタジオの前で強盗に襲われ、5発の銃弾を食らっている。命は取り留めたものの、これを契機にかつて弟分だったNotoriousB.I.G、その周辺のSean "Puffy" Combsらに激しい憎悪を抱くようになる(彼が銃撃された時スタジオにいたのがBiggy達だった)。95年、3作目のソロが遂にNo.1の座に。しかしその時彼は暴行事件の刑を務めるためにニューヨークの刑務所にいた。服役中に何度も彼を訪れたSuge Knightの熱意に打たれてDeath Row入りを決意、Suge Knightは1億円以上にのぼる保釈金を用意し、O.J.Simpson事件を担当したジョニー・コクラン弁護士の手腕で見事に釈放された。
96年、いきなりDeath Rowから2枚粗大作「AlI Eyez On Me」をリリース、再び大暴れを始める。服役中に「もうキャンダスタ・ライフとはおさらばする」と誓ったはずだったのだが。インタビューなんかでは時々殊勝な発言をしながらも、NotoriousB.I.Gら東海岸のラッパーに喧嘩を売りまくる。そして9月8日、高び凶弾に倒れ、9月13日、死去。享年25。その後Makaveli名義の作品「The Don Killuminati」がNo.1になり大ヒットを記録し、更に97年になってからは生前撮られた映画「Gridlock'd」が公開の運びに。そのサントラも当然のようにNo.1に飛び込んだ。日本では彼がDigital Underground以前にやっていたStrictly Dopeなるグループの「幻の音源」を発掘して再発された。
注・meantime6号掲載の2PAC追悼原稿を指す。6号の編集作業中に突然彼の訃報が飛び込み、夢中になって書いたけっこう混乱しつつも熱の隠った文。
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