| Masterpieces |
この名盤コーナーも今回で3回目、今回はぐっと趣を変えてウェストコースト系の作品を取り上げます。ストーンズ、パブリック・エナミーと硬派のメニューが続いた後だけに、特にウェストコースト系の音に馴染みのない最近の若いヒップホップ/ラップファン、テクノファン、ブリット・ポップ・ファン、アメリカン・オルタナ・ファンには「なーんだ軟弱だな」と受けとめられそうですな。しかしあなた、そう決めつけるのはちと早い。1970年代に大きなうねりを巻き起こし、1977年のイーグルス「ホテル・カリフォルニア」と1978年のドゥービー・ブラザーズ「ミニット・バイ・ミニット」を一つのメッセージとサウンドの頂点として表舞台から消え去ったかに見えるウェストコースト・ロック(しかし古臭い表現だな、確かに)の伝えて来た、歌を通じて内面的なまた社会的なメッセージを、カントリー、フォーク、R&B、ブルースなどを基礎とした極めて肌触りのいいサウンドに乗せて伝えるというスタイルは、現在のいろんな音楽スタイルの中に多かれ少なかれ影響を残している。パール・ジャムのエディ・ヴェダーがニール・ヤングに強い影響を受け、一昨年は「Merkinball」というミニEPを共作、ヤングのアルバム「Mirror Ball」に参加したという例を挙げるまでもなく、特に今のアメリカン・ロック・シーンで活躍するオルタナ系のバンドに60年代後半から70年代中盤にかけてのウェストコーストロックの影響を見いだすことは比較的容易だ。今回はその中でも主として内省的かつ情緒的なスピリチュアリズムに満ちたメッセージ的な作風から、ロックンロールの持つ躍動感溢れるポジティヴなエネルギーを体現する作風を経て、最近では政治的な視点からの社会に向けてのコメンタリーと初期の頃の極めてパーソナルな表現手法が交錯した作品を送り出している、アメリカン・メインストリームを代表するシンガー・ソングライターの一人、ジャクソン・ブラウンの初期の作品を取り上げることにします。
そもそも、「Late For The Sky」というのはどういう意味なのだろう。このアルバムと出会ってもう20年以上になるが、感覚では何となく「ああ、こういうことかな」と思っても具体的にジャクソン・ブラウンがどういうことを意図してこのフレーズを使ったのか、というのは今でも言葉で表すのは難しい。ジャケットを見ると、今まさに夜が明けきろうとしていて、空はもう既に奇妙に明るいが、あたりはまだ薄暗い闇に包まれている、そんな時間帯に、ある立派なお屋敷の前に、これまた奇妙にぴかぴかの旧型のシボレーが止まっている、という図。お屋敷の2階の窓は半分開け放たれて、そこからは部屋の明かりが漏れている、というなかなかストーリーが生まれてきそうな幻想的なジャケットデザインだ。空は朝なのに、下界で繰り広げられているストーリーは夜のお話だ、ということで「Late For The Sky」なのか。このフレーズ自体はタイトル曲の中でも曲の最後に1回だけ出てくるだけであり、果たしてこういう解釈が正しいのかは良く判らない、というのが本当のところだ。ただこのアルバム全体を通して感じられるのは、とてもパーソナルな感情と体験を切迫した、しかし極めて淡々とした調子でモノローグ的に語る曲と殆ど宗教的とも思えるスピリチュアルなメッセージの込められた曲が織りなす複雑であり、清冽な高揚感である。このアルバムを芸術作品だと評する人も多いが、そういう意味では聴くものにいろいろな解釈の余地を残した、良くできたアートのような深さがある作品と言えるのかも知れない。 こういった時代背景や詞の内容を考えながらこのアルバムを聴くと、先ほど僕が感じると言った「感情的内面の同一性」みたいなものが(しつこいようだが)音や歌声のそこここに感じられるのではないかと思うので、一度お試しあれ。その作品のオープニングであるタイトルナンバーは、盟友デヴィッド・リンドレーの感動的なギターの音色で始まる。 Late For The Sky まさに明けようかとする湿った早朝の空気を切り裂くようなギターの音色で始まるこのタイトル曲には、このアルバムで彼が表現しようとしている要素のほとんどが詰まっている。自分自身、自分自身が今まで生きてきたことの意味に対する問いかけ。恋人への思いや恋人の自分への思いの本当の所が何だったのか、わからなくなってしまったことへの驚き。そんなものがシンプルな歌詞にのせられて、ゆっくりとしたメロディにのせて歌われる。なお、この曲のコード進行のメインの部分と、メロディの感じは、後の「Running On Empty」に収録の『Rosie』を思わせるが、それとは異なり、この曲はゴスペルにも似た、一種緊張感を帯びている。
君はなぜ僕が君を愛したかが決して判らない
また目がさめて、気持ちを偽ることはできないことに気づく ここで表面的な事象として歌われるのは「終わりに近づいた愛」だが、この後の曲へ続く流れを考えると、むしろ彼(このアルバム全体の主人公)のこれまでの自分の生き方についてのふりかえりと一種の訣別を表現しているのではないか、という気がする。後半自分への問いかけを重ねながらカタルシスに登り詰めていく曲調は、この後に続く彼の悩みや不安を予感させ、早くも聴く者の胸を締め付ける。
僕はどのくらいの間眠ってしまっていたのだろう これほどアルバムののっけから聴く者を引き込ませる曲は珍しい。内省的(introspective)ではあるが、内没的(introverted)にならず決して安っぽい自己憐憫に終わっていない。このアルバムを通して聴くと、全体が一つのミュージカルか良くできた劇のように思えるのだが、このタイトルナンバーは実にパワフルなオープニングである。 Fountain Of Sorrow 4曲全てが5分以上というアルバムのA面の曲の中でも、この曲はとりわけ長く、実に6分42秒にも及ぶが、1曲目とうって変わってアップビートなリズムにのせて歌われるためか、意外と長さを感じさせない。アップビートではあるが、タイトルが示すように、人生に確かなものを見つけられない不安を、「心の中に泉のようにわき出す悲しみ」という表現で歌う、内容的にはやや重いイメージの作品だ。彼の恋人はそういう経験を過去に重ねてきた、主人公よりちょっと人生経験の長い女性、その彼女を主人公は元気づけようとする。
悲しみの泉、光の泉 この曲はこのアルバムからの2曲目のシングルとして1975年にカットされたが、チャートインはしていない。シングルとしてはあまりにもパーソナルな内容の曲だし、どちらかといえば深夜のアダルト・アルバム・ロックのフォーマットに最適の曲なので、無理もない。 Farther On 先ほども書いたが、この頃のジャクソン・ブラウン、ことにこのアルバムの曲は、極めてスピリチュアルな、一種ゴスペル的な重みのある曲が多い。今だったらこのアルバムなども、コンテンポラリー・クリスチャンのチャートにランクされてもちっとも不思議じゃない。といっても全然抹香臭くないし、次作の「The Pretender」でのようにアーメンなんて言ったりもしないが、伝えるメッセージは自らの弱さ、不安を何とかして打開したい、という切実な訴えであり、確信である。ここではまず主人公(=ジャクソン・ブラウン)が、人生における信念を表明する。
それでも僕は考えを充実させ、自らを導くために この曲のメインテーマは、「これまではいろいろ辛い思いもしてきたけど、何とかよりよい明日を信じて、信念をもって旅を続けよう」といった感じで、一歩間違えば結構クサくなりそうなのだが、ジャクソン・ブラウンの誠実な歌声と、後半段々に緊張感を増すメロディが危ういところでそれをまたしても大きなカタルシスに変えている。サウンド面では、ここでもデヴィッド・リンドレーの鋭くも暖かみに満ちたスライド・ギターの好演が、曲全体のシアトリカルなトータル感を盛り上げている。
天使達も今は年老いて 何があるかわからないが、きっと良き世界が待っていると信じて旅を続ける主人公。辛い人生を導くものは、他人ではなく、他ならぬ自分自身の信念(faith)だ、というメッセージにはある種の感動すら覚える。 The Late Show A面最後を飾るこの曲は、このアルバムのセンターピースであり、ハイライトであり、ミュージカルで言えば前半のクロージング・ナンバーというにふさわしい曲。これを聴くたびに、レコードのA面B面を意識して作られたアルバムがいかに素晴らしい演出効果を生み出すか、ということを再認識させられる。この曲もウェストコースト・ゴスペル、といった趣のゆったりしたメロディのナンバーで、J.D.サウザー、ドン・ヘンリー、ダン・フォーゲルバーグといったお馴染みの面々がゴスペル的な掛け合いのコーラスを入れながら、曲を盛り上げていく。イーグルスの「ならず者」あたりの曲の構成にも似た感じで、人に対する信頼、友人とは何か、といったメッセージが語られる。
知り合いは誰も会えば幸運を祈ってくれる 口先だけの友人、本当の気持ちを見せない者、そんな者達と付き合って行かざるをえないやるせなさ、そんなものへの矛盾を繰り返し訴えるにつれ、曲は佳境に入っていく。ここでのクライマックスではそんな悩みや悲しみは捨てて、旅に出よう、というこの前の曲と同様のメッセージにつながっていく。そして、ここでジャケットの謎が明らかにされる。
まるで君は誰も住んでいない家の ジャケットの神秘的な映像は、今まさに悲しみや悩みを捨てて希望にみちた未来に旅立とうとするふたりの門出を表していたというわけだ。シングル『Fountain Of Sorrow』のB面にも収録されているこの曲は、輝かしい旅立ちを感じさせる、シボレーが発進する力強いエンジンの音でエンディングとなる。まるでインターミッションを告げる劇場の幕がするすると下りてくるような感覚が味わえ、ため息をつきながら聴き手はおもむろにレコードを裏返す。 The Road And The Sky B面のオープニングはこれまでと一転して、軽快でアップビートなロックンロールナンバー。イーグルスに提供して、アルバム「On The Border」に収録されたナンバー、『ジェームス・ディーン』を彷彿とさせるようなとてもストレートフォワードな曲調に乗せて、旅に出た二人の開放的な気分が歌われる。
食べていくためには仕事につかなきゃいけないと言うけど ところがそんな開放的な雰囲気の一方、ノアの洪水を含意するような、例の「末世的諦観」を思わせる一節が登場し、二人の旅が単に開放的だけではないことを伺わせる。ますますシアトリカルな雰囲気は盛り上がって行くばかりだ。
頭上に黒い雲が出てきたのが見えるかい? For A Dancer 目一杯明るい雰囲気から一転して、A面の曲を思わせる、淡々としたメロディにのって、「死」とは何を意味するか、というディープでかつ、意外と身近なテーマがここでは取り上げられる。デヴィッド・リンドレーのフィドルの音色に乗せて、ジャクソン・ブラウンの死生感がさりげなく語られていくが、そのメロディーや曲調はなぜか暗くない。
人が死ぬとき、何が起こるのか僕には判らない 身近な人が亡くなるとき、人はそれが何を意味するか理解するのに異様な精神的努力を要するものだ。それが愛する者であればあるほどその意味するところを理解するのは困難を極める。ましてやそういう実体験無しに死を考えた場合、ここでジャクソン・ブラウンが言うとおり、「判らない」というのが率直なところだろう。そんな彼は死に行く者を送るにあたっての心情を表現するのに、また死にいく者の生きていた頃の意味あいを表現するのに、「踊る」という行為を象徴的にここでモチーフ的に使っている。考えてみれば人生などというものは、彼が言うように人の踏むステップを模倣しながら、そのうち自然と自分自身のステップを踏めるようになる過程に似ているのかも知れない。僕は転生輪廻というものを最近真剣に信じているようなところがあり、一人の生の終わりはあくまで劇の幕間の幕引きのようなもので次の幕がまたこの世のどこかで開くだけだ、と思っているところもあるが、ジャクソン・ブラウンによればそれは第一部で踊っていたダンサーが次の部で新たなダンスを踊るようなものということか。
君は誰かが蒔いた種から育って 人が自分の生きていたことの意味を知ることがない、という観念はなんと諦観的な観念だろう。仏教的ですらある。かくしてこのB面はA面に比較して明るめのアップビートの曲が多いのに反して、だんだんと諦観的というか、黙示録的な様相を強めてくる。このあたりの構成には極めて興味深いものがある。 Walking Slow この曲も一転してバウンスするようなリズムにとてもアップビートな曲調で、ツアーバスの中で音録りされたような地味な音ながら躍動感溢れるトラックだが、曲の内容はラストナンバーで文字どおり黙示録的なテーマを扱った『Before The Deluge』につなげるためのナンバー、という感じの曲だ。こういう明るい曲の中でも、ジャクソン・ブラウンは前曲からのテーマである「死」についてさりげなく触れるが、そのコメンタリーもあくまでウェットなものではなく、大きな宇宙の営みの中で生かされている人間、という視点が色濃く感じられる。
僕が歩き過ぎてしまう前に Before The Deluge 「大洪水の前に」と題され、このアルバムの最後を飾るナンバーは、黙示録(Apocalypse)的なモチーフで人間社会の現状への問題意識と未来への諦観的希望を、ジャクソン・ブラウン独特の淡々とした、それでいて胸に迫るメロディで語る。『For A Dancer』同様、デヴィッド・リンドレーのフィドルの哀愁漂う音色に乗せて川の流れのように演奏されるこの曲は、重厚なテーマとは裏腹に、A面のメインだったタイトルナンバーや、『Farther On』のようなゴスペル的なカタルシスはない。ただ淡々と、創世記の記録者が事実をつづって行くかのように黙示録的なメッセージが歌われて行くだけだ。ただそんな中にも、ジャクソン・ブラウンは、将来への希望を込めて、ポジティヴなメッセージを送ることを忘れない。これまでの苦悩に満ちてきた人生を振り返るようなほろ苦さを讃えたA面の曲とは極めて対照的だ。
さあ、音楽で僕らの気分を盛り上げよう こうしたオプティミズムを受けて、このアルバムの最後を締める一節では、後の「ノー・ニュークス」コンサートへの参加や、アルバム「Live In The Balance」や「World In Motion」の中で歌われるメッセージに見られるような、社会的問題意識を踏まえたメッセージが色濃くにじみ出ており、このパターンは、次作の「The Pretender」以降より赤裸々かつ皮肉的とも言えるほどのあからさまさで社会への遠回しの批判と、政治的コメンタリーへと発展していくことになる。しかし、1974年のこの時点、妻フィリスと息子イーサンに囲まれ、社会的に認知度も上がりつつあったシンガーソングライター、ジャクソン・ブラウンにとっては、知覚している現状への問題意識は高く持ちながら、極めてオプティミスティックな結論へとアルバム全体のメッセージを収束していくことが自然だったに違いない。
ある者は、この地球の美しさを力に変える術を学んだ者によって この曲はこのアルバムからの第1弾シングルとして、1974年にこの前のトラック『Walking Slow』とのカップリングでリリースされているが、『Fountain Of Sorrow』同様、当然というか、無理もないというか、チャートインはしていない。
1997年はジャクソン・ブラウンがデビューしてから25周年だったんだそうだ。デビューから25年経つと、ロックンロールの殿堂(Rock And Roll Hall Of Fame)入りへの資格を獲得できることは広く知られているが、今ファンクラブでは「ジャクソン・ブラウンを殿堂に!」という運動が盛り上がっているとか。それ以外にも昨年はアメリカでも、「The Rebel Jesus」「The Next Voice You Hear」の2曲の新曲を含む初のベスト盤(「Next Voice You Hear: The Best of Jackson Browne」)が発表され、今年に入ってこのベスト盤と、最近のツアーからのライヴ録音を11曲収録した「Best Of...Live」とをカップリングしたスペシャルエディションの2枚組が日本でも発売されるとか。4月には2年振りの来日公演も予定されており、ジャクソン・ブラウンの近辺はいつになく盛り上がっている。このアルバム発表当時のちょっと神経質そうなしかし穏やかで若々しい風貌から、20年以上経って幾つかの艱難を経て1993年にリリースされたアルバム「I'm Alive」の頃にはぎょっとするほど老け込んだ感じのするジャケットにちょっと心が痛んだものだが、今また新たな旅に出ようとしているジャクソン・ブラウン、最近のこうした動きをきっかけに再評価の機運が高まって欲しいものである。特に、「Running On Empty」「Hold Out」「Lawyers In Love」あたりの80年代のポップ・ヒット作以降の彼にしか馴染みがなく、ジャクソン・ブラウンといえば何かちょっと軟弱なポップ・ロックを歌うシンガーソング・ライター、といったステレオタイプなイメージを持ってしまっている人(結構多いと思うんだが)にこそ、この「Late For The Sky」を聴いて、彼がなぜミュージシャン仲間やオジサンの評論家達に高い評価を得ているかを実感として感じ、知ってほしいと思う。ジャクソン・ブラウンの最大のヒットは『Somebody's Baby』だが、彼のミュージシャンシップの本質はこの「Late For The Sky」以前にあるといっていいし、その時代の彼の音楽に見られるパーソナルな視点から普遍的な人間性への疑問や不安、愛への不信と期待、といった視点からの赤裸々で誠実なリリックは、未だに若いミュージシャンに取って、バーズやニール・ヤングやディランなどと同等の影響を与えていることは間違いないところなのだから。
新宿3丁目に「Martha」というこじんまりしたバーがある。入口を入ると、カウンターの右の頭上にはニール・ヤングの「American Stars 'N Bars」のジャケが、反対の左の頭上にはディランの「Freewheelin' Bob Dylan」のジャケが飾ってある、そんな店である。ここに夜行って、何杯かのバーボンを傾けた後にマスターに「Late For The Sky」をリクエストしてみよう。顔をくしゃくしゃにしたマスターと一気に仲良くなることができるだろう。このアルバムは、一回出会ったものの心にそれだけの位置を占めてしまう、そんなアルバムなのだ。
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