Masterpieces
Beggar's Banquet / The Rolling Stones

自己紹介をさせてください、私は財産家で贅沢屋の男です
私は幾世も生きてきて 多くの人から魂と信仰を奪いました
キリストが苦しみ神を疑ったとき 私はそこにいました
ピラトは手を洗い キリストの宿命を裁いたときも 私はそこにいました
初めまして 私の名前をご存じですね
私の企みに諸君は戸惑っていますね
ロシア革命のときにも 私はペテルブルグにいました
私は皇帝と大臣達を殺し
アナスタシア姫は私に空しく悲願した
電撃戦が激化し 死体が臭気を放ったとき
私は戦車に乗り 将軍になった
初めまして 私の名前をご存じですね
私の企みに諸君は戸惑っていますね おおイェイ
この世の王や女王が勝手に造り出した神のために
100年間戦争するのを 私は喜んで見ていました
「誰がケネディ一家を殺したのか」と私は叫んだ
でも結局 殺したのはおまえ達と私
自己紹介させてください 私は財産家で贅沢屋の男
ボンベイ到着前に死ぬように私は吟遊詩人に罠を仕掛ける
初めまして、私の名前をご存じでしょう
私の企みに諸君は戸惑っていますね ああ さあやろう

全ての警官は犯罪者 すべての罪人は聖人 同じように表裏一体だ
私をルシファー大王と呼べ 私には制御が必要だぞ
もし私に会ったら 礼儀と憐れみと贅沢でもてなしてくれ
今まで身につけた礼儀のすべてをもって 私を手厚く扱ってくれ
さもなくばお前の魂をブッ壊すぞ おおイェイ
初めまして、私の名前をご存じですね おおイェイ
私の企みに諸君は戸惑っていますね うむ続けよう
おおイェイ ベイビー 俺の名前が言えるかい
ハニー 俺の名前が言えるかい
一度だけ言ってやろうか
おお おお おお イェイ
言ってみろ、ベイビー 俺の名前を
俺の名前は何だ
おお おお おお イェイ
(Sympathy For The Devil  日本盤訳詞に一部加筆修正)

オープニングの「Sympathy For The Devil / 悪魔を憐れむ歌」でMick Jaggerは自ら悪魔に扮して聞き手をアジテートする。単純なフレーズを何度も繰り返しながら演奏やコーラスがだんだんファンキーに、厚くなって、盛り上げていくというゴスペル(および各国の「祈り」の民俗音楽)の手法。しかし神を賛える歌であるゴスペルに乗せて悪魔がファンキーに踊り、歌う姿は、それこそ悪魔的である。音の盛り上がりと共にだんだん本性を現わしてくる歌詞も実に巧みだ。この曲はもはやロック的な「かっこよさ」を超えてしまった、ただ単に「凄い」と圧倒されるしかない作品である。

続く「No Expectations」の枯れた味わい。まだ20代の若僧のくせにこの枯れっぷりは、マジただ者ではない。いや、誰もだた者だとは思ってないだろうけど、これと続く「Dear Doctor」「Factory Girl」なんかのカントリー・ブルーズ風の曲は本当、見事と言う他ない。Keith Richardsのヘタウマ・コーラスは随所で絶妙の味を出しているし、Mickは世間で思われているよりも遥かに「うまい」ボーカリストだと思う。

「Dear Doctor」はブルーズという音楽が黒人の生活の全ての要素を表現していたことを再現している。60年代以降、ブルーズに憧れ、ブルーズロックという形で表現した英米のミュージシャンは数知れないが、そこに決定的に欠けていたのがブルーズが本来持っていた「生活音楽」としての要素である。ブルーズは恋愛沙汰や、苦しみ、悩みの歌ばかりではない。彼等は生活のあらゆる要素、喜びや笑いも歌にした。眉間に皺を寄せてシリアスな顔つきで演奏するのがブルーズの「正しい姿」ではない。黒人のブルーズやR&Bにはノヴェルティ的なお笑いの要素を持ったものが少なくないのに対し、ブルーズロックにはそれが皆無なのは、彼らがブルーズを生活の中から生まれた「生きた音楽」ではなく、「ブルーズという一つの音楽フォーマット」としてしか見ることができなかったからだ。どんなに優れたミュージシャンをもってしてもブルーズロックがブルーズを超えるどころか並ぶことさえできなかったのは、その根本的な解釈の間違いに原因がある。Stonesは、ブルーズを正しく解釈できた数少ないバンドの一つだ。だから、こういう曲ができるのだ。逆立ちしてもClaptonにはこんな曲はできない。

「Parachute Woman」「Jig-Saw Puzzle」は一転してロック色が強い。それでも前者なんかは典型的なブルーズの形式であるAABCの4行詞で、内容は相当エロティック。

「Street Fighting Man」は唯一のシングル曲だが、実はアルバム中いちばんつまらない曲のような気もする。

そしてまさに1曲目に登場する悪魔が取り憑いたかのような「Prodigal Son」の有無を言わせぬびりびりに張り詰めた空気。こういうのを聴かされれば、30年代とかには「ブルーズは悪魔の音楽だ」と本気で忌み嫌われたのが分かるだろう。ドスの効いた、押し殺したMickのボーカルに、Brian JonesとKeithの取り憑かれたように突っ走る2本のアコギ。Brianなんか、とにかくでかい音量でうるさい音を出せばいいという最近のロックの風潮をあざ笑っていることだろう。アンプのボリュームを最大にしてエレキギターをかき鳴らしても、これだけ「凄味」のある音は出せない。歌詞の内容は聖書に登場する物語の一節まったくそのままで、1920年代のブルーズ「That's No Way To Get Along」が原曲。 「Stray Cat Blues」は「Parachute Woman」あたりと近い感触の、未成年とやっちゃう曲。

「Factory Girl」はアコースティックなカントリーブルーズ。曲や枯れた演奏が味わい深いのはもちろん、詞がすごくいい味を出している。

髪にカールクリップをつけた女を待ってんだ
スッカラピンの文無し女を待ってんだ
俺達は何処へ行くにもバスに乗る
俺は女工を待ってんだ

大根足の女を待ってんだ
頭にスカーフを巻いてる女を待ってんだ
あいつのジッパー、ぶっ壊れてんだよ
俺は女工を待ってんだ

俺の喧嘩のタネになる女を待ってんだ
金曜の夜 一緒に酔っ払う女を待ってんだ
彼女ときたら俺の目をパッチリさせるよ
俺は女工を待ってんだ

シミだらけの女を待ちながら
俺の足元はびっちょびちょ
まだ出て来ねェ
俺は女工を待っている うむ

そしてラストの「Salt Of The Earth / 地の塩」。タイトルは聖書からの引用で「社会を堕落させないようにしている人々」のこと。"Let's drink for the hardworking people / Let's think of the lowly of birth / Spare a tought for the ragtaggy people / Let's drink to the salt of the earth"なんて歌っちゃうのがストーンズのかっこいいところなんだよな。

ここまで巧みに聖書と悪魔という正反対のイメージを巧みに織り混ぜてきて、最後はこうやって奇麗にシメる。それも不良とか悪魔とかいう従来のStonesのイメージを崩さずに。「重労働者」や「生まれつきの下層階級」や「ボロを身にまとった人々」を「社会を堕落させないようにしている人々」と並べ、彼らに乾杯、なんて、他のバンドがやったら嫌味になってしまうところを、こいつらは見事に「自然に」やってみせた。

彼等はこの前のアルバム「Their Satanic Majesties」でビートルズの「Sgt Peppers」に対抗しようとして失敗した。心機一転、ルーツに戻ったと言われたこのアルバムでは、彼等は意図的なコンセプトの元ではなく、素のままで時に悪魔になり、時に工場の外で女が出てくるのを待つしがない男になり、時に未成年の女の子とやっちゃて罪悪感に悩む男になり、時に人間たちの様子を第三者的に公平に見る者、すなわち神になり切ってしまった。ごたいそうなコンセプト・アルバムなんか必要なかった。彼等は悪魔の音楽であるブルーズに入れ込み、それを自分たちで再現した。多くのバンドがブルーズの要素にロックを絡めて「自分流」にしようとした、すなわちブルーズそのものとはまったく違う出発点に立っていた中で、ここでのStonesはブルーズが発信されていたのと同じ地平に立った。

ブルーズというのはそんなにごたいそうな音楽ではない。要は20世紀前半のアメリカ黒人の民俗音楽である。しかしClaptonなどはそれを神格化しすぎてしまい、その中に自ら足を踏み入れることができず、常に一歩離れたところから表面を模倣していた。「自分たちは黒人たちのように辛い思いをしていない。だからああいうことは歌えないし、そっくりそのまま模倣なんてできない」という理屈が先行してしまっていた。しかし何年か前にSounds Of Blacknessというゴスペルグループが高らかに歌ったように、黒人の側ではこう思っている−"Everybody wants to sing my blues / Nobody wants to live my blues"−この言葉は重い。

Stonesはブルーズを歌うのに、必ずしも黒人たちと同じように権利を奪われ、虐げられ、貧乏生活をし、苦しまなければいけないとは思わなかった。要は彼等と同じ地平に立てばいいのだ。なぜなら、ブルーズとは「生き方」であり、恋愛とか苦悩といったその「結果」ではないからである(これはヒップホップについても同じことが言える)。Tracy Chapmanの大ヒット「Give Me One Reason」という曲を、私はビデオクリップを見てから大好きになった。あの地味なもろブルーズで踊ってる。色んな音楽を幅広く聴いて、自分では音楽的に非常に許容範囲が広く、柔軟だと思っていた。でも、やっぱりいつしか自然に「体で受け入れる」のではなく、「頭で受け入れ」てしまっていた。あの地味なブルーズで踊ってる。そんなことに驚きを感じてしまうこと自体、ブルーズ=踊るような音楽ではない、という偏見である。体が自然に動き出す音楽に、ブルーズも何も関係ないのに、まず頭で「この音楽はブルーズだ」と分類して、ブルーズってのはこういう音楽だな、という、自分の中にある公式にあてはめて、それが「本格派」だとか「エセ」だとか勝手なことをぬかし、その音楽に対する接し方を決めていた。ちょっと大げさな書き方をしてしまったけど、これが大方の白人ミュージシャンの、ブルーズに対する接し方だと思う。しょせん西洋音楽なんてクラシックという「理論」と「形式」と「美学」の音楽がルーツにあるんだから、それは白人としては自然な考え方かもしれない。しかしブルーズというのは根本的にまったく違う思想から生まれた音楽なんだから、いくら譜面やギターの奏法や歌い方を真似てみたところで、西洋音楽的な思想を抜け出さない限りは絶対にオリジナルに追い付き、追い越すことはできないのだ。

ブルーズが悪魔の音楽であると言われた時代、黒人にとってのポピュラーミュージックとはすなわち教会音楽(ゴスペル)だった。これは、奴隷制時代の名残で、アフリカから西洋とは異なる文化をもったままアメリカ大陸に連れてこられた黒人に対する白人の施策によるものである。アフリカ黒人の多くは歌や踊りによって精神を高揚させ、儀式や祭や祈りなどの際には欠かせないものだった。それを知った白人(奴隷所有者)は、黒人奴隷たちが団結したり興奮したりして反乱などを起こさないように、娯楽や歌や踊りを禁じた。また、奴隷は「商品」として売り買いされたので色々な地域出身の黒人が寄せ集められ、同じ文化的背景を持つ奴隷同士が同じところにいることは稀だったため、必然的に歌や踊りは彼等の日常生活から姿を消した。そんな彼等に例外的に許された歌は、農作業時の効率を上げるとされるワークソング(畑で作業をする人みんなで声をあわせて歌う)と、教会での祈りの歌だった。当然奴隷制の時代には黒人が白人と同じ教会に通うことなど許されなかった。黒人は黒人だけの教会に通い、そこから独自の文化が生まれ、ゴスペルと呼ばれるものに育った。 これに対して酒場や夜の繁華街で育ったのがブルーズだ。黒人音楽の二大源流となるこれらの音楽は「聖」のゴスペルと「俗」のブルーズ、「神」のゴスペルと「悪魔」のブルーズであると対比される。しかし現実には、牧師の父親に厳格に育てられ、少年時代の毎日を教会で過ごしたSam Cookeみたいな人でも、ある程度の年になるとブルーズに興味を示しだし、夜こっそりと繁華街に繰り出したりしていたらしい。改めて考えてみれば当たり前のことではあるが、後の世代が言うほどゴスペルとブルーズは水と油の関係ではなかったということだ。神がいるからこそその対極に位置する悪魔なんてものが考え出されたわけで(←無神論者の言い分)、悪魔とは神を正統化するための「引き立て役」でしかない。「悪魔を憐れむ歌」にもこんな一節が登場する。「全ての警官は犯罪者 / すべての罪人は聖人 / 同じように表裏一体だ」
そしてその思想はラストの「地の塩」でもう一度登場する。「重労働者たちに乾杯 / 生まれつき身分の低い者のことを考えながら / ぼろを身にまとった人々を思い浮かべながら / 社会を堕落させないように頑張っている人たちに乾杯」

曲調に一貫性があるとか歌詞がストーリーになっているとかいう、「作られたコンセプトアルバム」ではなく、ばらばらの曲調でも、確実にひとつの空気に包まれているという意味で、見事なトータルアルバムである。 Mickの表現力の豊かさ、KeithとBrianの研ぎ澄まされたギター。音楽的にこれより優れた作品はいくらでもあるけど、録音の中にぴりぴりに張り詰めた空気までも収めた作品にはなかなかお目にかかれない。これは本当に奇跡的な作品だ。

純粋にこの音を楽しむんならあまり必要な知識だとも思えないが、一応データ的なことも挙げておく。
これはStonesのイギリスでの8作目、アメリカでは12作目にあたるアルバム。現在は便所の落書きのジャケで無事に発売されているが、当時はこれは「不快だ」という理由でレコード会社に差し止められ、白地に文字だけ、という無味乾燥なジャケで発売された。1968年末に発売され、全米5位(最近発売された「Rock N'Roll Circus」はこの時期の録音)。なにしろアルバムからの唯一のシングル「Street Fighting Man」がアメリカで48位、イギリスで21位とふるわなかったので、膨大なStonesの旧作群から「とりあえずは知ってる曲の入ってるアルバムから聴いていく」という聴き方をしていると、このアルバムにたどり着くまでに30枚近くを聴くことになるかもしれない。いわゆる評論家的な評価はもちろん極めて高く、誰が評価してもまず間違いなく5つ星が与えられていると思う。ただ70年代初頭までのStonesなんてどれもこれもみんな5つ星だろうから、このアルバムがとくに目立つ評価を与えられることはない。むしろ時期的に近い「Let It Bleed」や「Sticky Fingers」の方が一般的にも有名だし、ロック的な明快さでわかりやすいし。逆に私には「Sticky 〜」なんかは物足りなくて、この「Beggars Banquet」か「Exile On Main St.」が愛聴盤なんだけど。

March 1997, Kazuyuki Shinkai (kaz@meantime-jp.com)


このアルバム、買いたい!
meantime提携のオンラインCDショップ、CD nowでどうぞ

イントロダクションに戻る



copyright (c) 1997-1998 by meantime
無断転載を禁じます