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第2章 作品紹介(その2)
「Juice」も「Boyz N The Hood」に近い、黒人だけの社会の内部で完結する「Hoodモノ」である。日常生活の描写なんかでは「Boyz N The Hood」よりもこっちのほうがリアリティがある部分もあるが、全体的にストーリーの粗さが目立ち、ところどころ「何でそうなるの?」というところもないわけではない。
「Boyz N The Hood」では敵は最初から敵として描かれていたが、「Juice」では何をするにも一緒の、大親友4人組が、ふとしたことで銃を手に入れてしまったばっかりにピリピリと張り詰めた雰囲気になってしまい、ついにはお互いに殺しあってしまうのである。中でも、銃を手に入れて超ハイテンションになってしまい、爆走しまくる役の2Pacの怪演は、鬼危迫るものがある。まあ、これが地なんだろうけど。と、こういう内容だから後味は悪いし、何より陳腐すぎるエンディングが納得いかない、まあ所詮映画としては二流・三流の作品である。しかしブラックムービーブームにうまく乗ったことと、話題性やサントラのヒットもあって、興行的には好成績をおさめた。ただ、ストーリーの本流とは関係ないところ、たとえば彼等が銃なんてどうやって手に入れているのかとか、向こうの高校のいわゆる「落ちこぼれ」ってのはどんな風なのか、彼等は家庭生活、日常生活で何をしてるのか、万引きするときの手口は、なんていう、我々が知る由もない部分の描写が非常に興味深くはある。
それに比べると「Menace II Society」はその暴力描写などが異様に生々しいことと、観客が感情移入できるような主人公を敢えて設定せず、終始一歩離れた視点から描いていることで妙なリアリズムがあり、かなり怖い。結局これもストーリーとしては仲間がぼこぼこに殴られた仕返しに、ショットガンで復讐するだの何だのということで若者が次々に死んでいく陰鬱なお話である。しかし全体を何か諦めのようなドライな空気が覆っていて、独特の雰囲気を醸し出している。音楽で例えればN.W.A.周辺の連中などがこういう殺人や犯罪を「見世物」的に表現しているのに対し、同じ題材を扱っていながらもGeto BoysのScarfaceやToo $hortといった連中はどこか冷めた目で、「無常観」みたいなものを漂わせている感じに近い(彼等の日本での知名度が本国に比べて圧倒的に低いのは、やはり「分かりやすさ」の問題だと思う)。サントラがまた、映画の雰囲気そのまんまで、かつ、一個の独立した作品としても鑑賞に耐えるという最近のサントラのスタイルの一つの完成形とも言える素晴しい出来である。
それにしてもこの内容でこの雰囲気の作品に邦題「ポケットいっぱいの涙」とは、担当者のセンスとか何とかいう問題じゃ済まされない、原作者たちに対する冒涜じゃないか、これは?(と思ってたら、やっぱり監督自らインタビューで怒りを露わにしていた)
ここまで、ブラックムービーというのはどうも「黒人社会の内部を暴く」という内部告発的なものが多かった。しかしもっと純粋に娯楽に徹したブラックムービーもある。たとえば93年の「Meteor Man」だ。しかし邦題は「メテオ・マン」だが、どうして「ミティア」が「メテオ」になるのか。昔Xanadu(ザナドゥ、ELOの曲じゃなくてもっと昔の映画)を邦題「キサナドゥ」としていたみたいに後で笑われるぞ。まぁそれはいいとして、これはもう単純明快、スーパーマンが黒人になったと思えばいい。もちろんこういう黒人による黒人のための単純な娯楽作品というのは、新しい潮流でも何でもない。しかし90年代のブラックムービー群の中にあっては、確実に異色の存在であることは非常に興味深い。最近ヒットした2本のブラック・コメディ「Friday」「Bad Boys」にしても、あくまでも普通の町で普通の人が繰り広げるギャグであって、スーパーマンとか宇宙人とかいう映画ならではのぶっ飛び方が見られないのだ。
それは、最近の若い黒人たちの音楽の嗜好にも似ている。「ストリート臭い」ものが人気があって、「いかにも作られた」風なものは人気がない、というかワンランク下のものであると認識されている。具体的に言えば、The Notorious B.I.G.が大人気で、Luther Vandrossが「カラオケおやじ」とかボロクソに言われるのだ。「今風の黒人若者のライフスタイル」に近ければそれだけ高く評価されるというのは、言い替えれば彼等はそれだけ自分たちのライフスタイルに自信があるのだとも言える。Jodeci、Mary J.Blige、The Notorious B.I.G.らを世に送り出したことで、今やJam & LewisはおろかBabyfaceをも凌ぐ人気プロデューサーとなったSean "Puffy" Combsは、自分自身は黒人でも中流階級の出身だが、「貧しくてもカッコいい」ゲットーの連中への憧れを隠していない。そればかりか、彼等こそが「本物」なのだと言っている。そういう意味では労働者階級出身ではないパンク・ヒーロー、Joe Strummer(The Clash)に立場的には似てたりする。
で、ここで改めて考えてみると、別に最近に限らず、黒人文化というのは昔から「装飾」や、過度の脚色が嫌いだったことに気がつく。究極のブラックミュージックであるブルーズやゴスペルなんて、人間の声に、せいぜいギターかピアノと、最小限のリズムセクションだけである。プログレとかニューエイジとか、もっと言えばクラシックとか、ああいうジャンルで活躍する黒人は極めて少ない。それは、黒人の感情表現というのは非常にダイレクトな形で現われるからだ。喜びや悲しみや怒りを表現するのに、何十人のオーケストラや、10分や20分の曲を作る必要なんかない。ブルーズをお手本にしている筈のブルース・ロックは、インプロビゼーションと称した長々としたギタープレイとかが大好きだが、黒人のブルーズ・ミュージシャンというのはそういうことはしない。彼等は、ただ一声唸ってそれを表現してしまう。彼等がやりたいのは自己陶酔ではなく自己表現なのだ。優れたジャズ・ミュージシャンがわざわざ美しいメロディをぶっ壊したり、楽器を弾きながら唸り声をあげたりするのは、こういうことだ。いい・悪いとか優劣の問題ではなく、それが彼等のスタイルなのだ。彼等は曲や作品や自分のテクを披露したいのではなく、自分の言いたい、表現したいことを「曲」という形に託しているだけなのである。
私は、それが、「ソウル」なのだと思っている。今まで私の文章を読んできてくれている人達は、私が何度も「ソウルとはスタイル(形式)ではない」と書いてきたことを思い出していただきたい。黒人が歌ってるからってソウルだとは限らないし、Michael BoltonやMariah Careyがソウルだとは断じて認めないのも、こういう理屈からである(というか、今までは感覚で判断していただけで、後でよくよく理屈を考えてみたらそういうことだったんだけど)。
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