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第2章 作品紹介
本格的なブラックミュージックの復権は80年代後半のニュージャックスウィングの登場と、ヒップホップの一般普及期まで待たねばならない。
ブッシュ大統領の登場でレーガン政権時代にたまりにたまった膿が一気に表面に出始め、黒人社会はにわかに動き出す。そのメッセージが乗せられる音楽のフォーマットこそ違うが、再びブラックミュージックの歌詞が社会性を帯びはじめる。
そして、決定的な引き金となったのが東西冷戦の終了と、湾岸戦争である。ゲーム感覚で全米を酔わせたこのハイテク戦争は、しかし黒人や少数民族にとってはベトナム戦争を思い出させただけだった。黒人や被抑圧人種の多い部隊は優先的にもっとも危険な戦場に派兵される。ベトナム戦争でのインディアンの強引な徴兵や、最も戦死者の多かった部隊が日系人部隊だというのは有名な話である(そもそもそうやって人種別の部隊編成が為されていること自体が驚異である)。
犯罪/暴力的なイメージを売りにしたN.W.A.や、マリファナ解禁を声高に主張するCypress Hillなんてのが全米を席巻した。同時に、その対極にあるといってもよいカントリーが、Garth Brooksという若きスターと共に突然の復活を遂げた。60年代の公民権運動が落ち着いて以来、社会のメインストリームにいるアメリカ人にとっての最大の敵はソ連だった。そのソ連が崩壊すると、うまい具合にサダム・フセインという「悪者」が登場してくれたので、すべての憎悪感情は彼に対して振り替えられた。そのフセインも飽きられると、今度は国内に目が向き、何世紀もの間存在してきた筈の人種問題と移民流入問題が俄に騒がれ出した。最近黒人どもがガタガタうるさいじゃねえか。俺たちから取った税金で(福祉で)食わせてやってるのに、ろくに働きもしねえで権利ばっかり要求しやがって。こう考える白人は少なくなかった。元KKK幹部のデビッド・デュークが選挙で強力な支持を得た。
この不穏な空気を逸早く映画作品として部外者の我々に伝えたのが、89年のSpike Lee作品「Do The Right Thing」である。イタリア人一家経営のピザ屋。黒人街のど真ん中にあり、客は黒人しかいない。それでも、とくに問題もなく今まで何十年も続いてきた。しかしある日、ふとしたトラブルから暴動にまで発展し、店は燃やされてしまった。根底にあったのは、人種間の抗争である。店内に飾られるイタリア系の有名人たちのポートレートに、いちゃもんをつける黒人の若者。黒人の街で、黒人の客しか来ないんだから、黒人も飾れ、と。そんなのは関係ない、ここは俺の店だ、イタリア人以外は飾らん、と譲らない店長。黒人のバイトは怠け者だ、と忌み嫌う店長の息子。ラジカセで大音量でラップをかけながら来店する黒人。その度に交される店員との口論。周りがガタガタ騒がしい中でイライラする店長。そして、「うまいピザが食えりゃそれでいいじゃん」というごく普通の若者たち。数の上では彼等が圧倒的多数を占めるにも関わらず、暴動は起きた。そして、ごく普通の若者たちもそこに加わった。彼等はべつに日頃からイタリア人一家を憎んでいたわけじゃないし、後になってピザ屋がなくなってしまったことを後悔したに違いない。しかし、彼等は一緒に店のガラスを割り、テーブルを叩き壊した。
この映画は、現在置かれている白人と黒人の一触即発の関係を描き、また、暴動なんてこんな風にあっけなく起きてしまうものなんだということを表現した。そして、それが事実だということをロス暴動が証明した。
さらにもう一段階深く追ってみて欲しい。「普通の」若者たちは、なぜ暴動に加わったのか。単に大騒ぎしたい血気盛んな連中だったのか?ゲットーの黒人の若者なんてろくな教育も受けてないし馬鹿だから何も考えないでただ加わっただけなのか?ロス暴動のほうは真相はわからないとしても、映画の方は、あのシーンにも何かしらの「主張」があるはずである。
二つ考えられる。一つは、今述べたように「何も考えてない奴」が多いという、いわばSpike Leeによる黒人社会の内部批判である。もう一つはもう少し対外的なもので、多くの黒人たちは普段の日常生活に於いてこそ敢えて口にしなくても、多かれ少なかれ白人(を始めとする自分たちよりも優位にある人種)に対する潜在的な敵意を持っているのだということだ。そして、こういうふとしたきっかけによってそれが一気に解き放たれてしまう、と。
「Harlem Speaks」という本がある。ごく普通の一般人から著名人まで、ニューヨークのハーレムに住む黒人に、ハーレムやそこでの自分の人生について自由に語らせたものを綴った本だ。これを読むと、彼等の白人に対する警戒心は驚くほど高いことがわかる。本当にごく普通のおねえちゃんが、「ハーレムに麻薬が蔓延しているのは白人の陰謀だ」とか平気で言ったりしているのだ。こういう考え方が存在することこそ知っていても、それはあくまでも過激な意見なんだという私の認識は甘かった。この本に登場するほぼすべての人間が麻薬や犯罪の問題に言及し、麻薬については7〜8割の者が「白人による陰謀説」を唱えた。
「Do The Right Thing」では人種間の不和というテーマを鮮やかに描いていたが、その次に話題になったブラックムービー、91年の「New Jack City」は、なぜアメリカではあれほどウケたのか、我々には分かりにくい。映画を見て興奮した観客が、思わず銃をぶっ放してしまったとかいうんだから。それは、分かりにくさという意味では、日本では「逮捕されました」「無罪でした」しか報道されなかったが、アメリカでは連日裁判の模様が生中継され、判決の瞬間には証券取引をも含むあらゆる政治経済機能がストップしたというO.J.シンプソン事件に似ているかもしれない。
しかしこれは映画もサントラも大ヒットしたが、実は内容としてはたいした作品ではない。大スターWesley Snipes扮する黒人の麻薬王と、それに挑む警官たち。この警官たちってのがお約束のように一匹狼の集まりみたいなアクの強いのばかりで、しかも白黒混合なもんで、最初はやっぱり「俺は白人野郎となんか組まねえぞ」「俺が黒人の指示を受けるだと?ざけんなよ」などとお約束通りモメる。で、内輪で反発しあってるのが、犯人を追い詰めるという共通の目的に向かってしだいにみんなで協力するようになる、ってやつ。まあ言わばポリスアクション物である。警官たちってのは4人組で、うち一人はラッパーのIce-T、リーダー役はこの作品の監督でもあるMario Van Peebles。この辺の「白人が黒人と組むことへの戸惑い」はEddie Murphyの「Beverly Hills Cop」シリーズの方がむしろスマートに描いている気はする。
という感じで、映画作品自体は別にどうってことはない。では何が重要かというと、麻薬王を黒人として描いた点である。先のハーレムの住民たちの声にあるように、黒人の間の麻薬問題というのは、ドラッグディーラーなど直接モノをバラ捲いているのはたしかに黒人だが、それを一番トップで操り、最終的な富をすべて集中させているのが白人で、しかもそれは単なる金儲けに加えて黒人社会を堕落させるという目的も兼ねているのだという「白人による陰謀説」が根強い。Mario Van Peeblesという監督は、かの「Sweet Sweetback's Badasssss Song」のMelvin Van Peeblesの息子で、かなり社会意識の強い奴なので、「陰謀説」を意識していない筈はない。では、「白人の麻薬王」を描き、それを黒人の警官たちと戦わせれば黒人大衆の支持を受けられただろうか。おそらく、そうであれば、これほどのヒット作にはならなかっただろう。理由は2つある。
ひとつは、先に例に挙げたO.J.シンプソン事件で改めて指摘された、黒人民衆の警官に対する不信感である。もちろんすべての警官が例の(証拠を偽造して濡れ衣を着せ、O.J.を逮捕したとされる)刑事のような、偏見に満ち満ちた差別主義者ではないことは、黒人たちもわかっている。しかし、いつその権力と銃をタテに暴力をふるわれるともしれない相手とは、常に一歩距離を置いておくのが無難だ。若者やギャングのように積極的に警官を「敵」と見なさないまでも、別に何もやましいことが無くても、できるもんなら関わりあいにはなりたくないと、多くの黒人たちは思っている。その警戒は何も白人警官に対するものだけではない。同じ黒人であっても、「白人の手下」であるとか、権力を振りかざし、貧しい者をいたぶってるとか、白人(権力)に魂を売っただとか言われることがある。だから、仮に映画の中で黒人の警官が白人の大物麻薬王を捕まえる大活躍をしたところで、黒人の若者たちが手放しで喜ぶかといえば、決してそんなことはない。
もうひとつは、意外とディープな理由だ。いや、事情を知らなければ馬鹿らしく聞こえるかもしれないけど、麻薬王でも何でもいいから黒人が頂点に立つってのは、何か気分のいいことなのだ。たとえば、日本のヤクザがアメリカで猛威をふるってアメリカ人のギャングとかがびびりまくってるという場面があったら、日本人が悪役にされたというマイナス感情と同時に、ほんのちょっと気分がよかったりもするんじゃないだろうか。それは、日常ではアメリカ人に圧倒されることの多い日本人が潜在的にコンプレックスを持っているからだ。とくに体格とか力という点では日本人のほうが一般的に劣勢だという意識が公然のものとなっているから、たとえヤクザだろうと何だろうと、日本人がアメリカ人を力でねじ伏せたとなると、「ざまーみろ」とか思ってしまうのである。
映画「Malcolm X」でも描かれていたナンバー賭博。もちろん違法行為だが、1940年代のニューヨークでは年間150万人がこれに参加し、当時の1億ドルという驚くべき巨額が動いていたという。この時代も、警官が目の敵にするのは下っ端の使い走りの黒人たちで、いちばん儲かる総元締めは白人でお咎め無し、という状況だった。連邦下院議員であり、公民権運動家であったアダム・クレイトン・パウエルは、地盤のハーレムで「賭博でも平等の権利をよこせ」と主張したほどである(そういう表裏のない性格が災いして後に議員の職を追われてしまう)。
従って黒人の麻薬王は、黒人をネガティブに描いたというよりは、むしろその逆で、力で成り上がった、ある種の憧れを喚起するような存在なのである。70年代のブラックムービーブームのときもこういう「反逆のヒーロー」が好んで描かれた。しかしそれらヒーローが最後まで逃げ仰せるのに対し、90年代では、ヒーローと言えども最後には制裁を受ける。本作でも最終的には警官たちの勝利に終わる。その辺が、より現実に近いという意味で文化的な成長であり、「ストリート臭いもの」がウケる90年代において本作が大ヒットしたポイントだろう。
続いて91年にはもう1作品、重要な作品が登場する。John Singleton監督の「Boyz N'The Hood」だ。「Do The Right Thing」「New Jack City」が共に白人と黒人という人種間の問題を扱っていたのに対し、この映画には通行人にさえほとんど白人の姿は登場しない。サウス・セントラルと思われるLA郊外の黒人住宅街。すべての物語はそこで完結する。
Dr.DreだのEazy-EだのSnoop Doggy Dogg、あの辺の雰囲気そのまんまの兄ちゃん達が街角でぶらぶらとたむろする。もちろん学校に行くでもなければ働くでもない。昼間からビールを飲んで、通りすがりのおねえちゃんにちょっかい出すわ、ガキから金や物取り上げるわのやりたい放題。少年時代をこういう環境で過ごせば、「俺も早く大きくなって奴等に負けないようになりたい」あるいは自分も年下の奴からそうやって金巻き上げるんだ、と思ってしまうに違いない。わんぱく少年と、ちょっと気弱な弟。そしてその向かいに住む生真面目な少年。生真面目少年は窮屈さを感じながらも超厳格な父親に育てられ、まっすぐに育っていく。わんぱく少年は、弟や生真面目少年がいじめられていると年上の相手だろうと何だろうと猛然と挑みかかっていく勇猛果敢である種の正義感の強い子だが、変に度胸があるせいか万引きの常習犯になり、とうとう少年院に送られてしまった。
次のシーンでは、わんぱく少年が何度目かの出所をし、ウェルカムパーティーが開かれている。前のシーンから約10年が経ち、ここでわんぱく少年を演じるのはIce Cubeに変わる。3人は相変わらず向かい同士に住んでいて、ときどきはつるんでいる。気弱な弟はフットボールの才能を発揮し、大学からスカウトが来るまでになった。ところがちょっとしたことでギャングスタ連中に目を付けられてしまい、「ヤキを入れられて」しまった。ここが日本と彼らの環境の最大の違いだ。日本なら、どっか人気のないところに連れてってそこで殴る蹴る、ってことになるんだろうが、こいつらは白昼、車からショットガンを構えて、弟を蜂の巣にしてしまった。たまたまそこに居合わせた生真面目少年は、全身から血を溢れさせて死んでいく親友を目の前に、激しいショックに襲われる。
その深い悲しみと驚きは、静かに怒りへと姿を変える。彼は生まれて初めて父親の護身用の銃を引っぱり出し、兄(Ice Cube)と共に復讐を誓う。しかし生真面目少年はやっぱりどこまでも生真面目だった。敵を探して車を流しているうち、やっぱり自分にはできない、と泣き出して車を降りてしまった。
Ice Cubeはその後しっかりと「お仕事」を果たし、翌朝、何もなかったかのように二人は顔を合わせる。お互い何と言っていいかもわからず、他人行儀な挨拶とかしてみせる。そのうち、Ice Cubeがさらに向こうからの復讐を受けて死ぬ。彼が死ぬシーンは描かれない。ただ、生真面目少年の家の前からCubeの姿が消え、「死んだ」という旨のテロップが入るだけである。あまりにも悲しいことだが、彼らにとって、死ぬことは日常生活の一コマなのだ。最初に、弟が殺されるまでのシーンは、非常に長く丁寧に描かれている。それから、復讐で敵を殺すまでの間は比較的短かい。そして、そのすぐ後にはCubeが非常にあっけなく死んでしまう。周りでどんどん人が死ぬことによって「人が死ぬことの重大さ」の感覚が麻痺してしまう様を描いているのだと思う。
20年間(推定)もの間厳格に育てられ、マトモに育ってきた少年にさえ銃を握らせてしまうゲットーの悪循環。殺られたら殺りかえす。こんな単純で危険極まりない発想にマトモな人間をも追いつめてしまう環境。黒人に対する冷遇で知られるアカデミー賞でさえ、本作の監督・John Singletonはノミネートせざるを得なかった。Ice Cubeの演技も、すばらしく光っている。私はいまのところ本作がブラック・ムービーの最高峰だと思っている。
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