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第1章 歴史
ブラック・ムービーというのは、ブラック・ミュージックという言葉と同じぐらい曖昧だが、そのニュアンスは分かると思う。たとえばMichael Jacksonはブラック・ミュージックかと言えば、違うとは言い切れないけど、どっちかというともっと広く一般大衆向けの音楽である。同じように、Eddie Murphyの映画は、ブラック・ムービーではないとは言い切れないまでも、どっちかというと一般マーケット向けの作品なのだ。
ブラック・ムービーの歴史は意外と古く、1910年代、映画文化そのものの創生期にまで遡る。そう、まだ奴隷解放から数十年、黒人差別なんてのは誰もが空気のように当然だと思っていた時代だ。しかしそんな時代でも、1920年代のニューヨーク市ハーレムを中心に「ハーレム・ルネッサンス」と呼ばれる、アメリカの歴史上初めて黒人を中心とした文芸復興が起きていた。当時「レイス・ムービー」と呼ばれた作品群は、当時の人種隔離の副産物と言っても良い。まず第一に、黒人の作った作品など白人が見ようとするはずがないし、特別に意図のある作品でなければ、白人の作った作品を黒人に敢えて見せてやろうともしないだろう。それ以上に、この時代は人種による分離が当然で、映画の劇場も白人用と黒人用とは厳格に分けられていた。そうなると必然的に黒人による黒人のための作品が生まれ、彼らの独自の文化が形成されるわけだ。
もう一つ、彼らのそういう創作意欲に火をつけるようなきっかけがあったのだ。1915年の「映画の父」D.W.Griffithの「The Birth Of A Nation / 国民の創生」がKKK賛美、黒人排斥の極端に差別的な内容だったため、文化人を中心に黒人社会からは猛反発が起きた。それが、翌1916年からのレイス・ムービー群である。1920年には、南部での黒人リンチ事件を取り上げた「Within Out Gates」という作品が作られ、上映禁止処分を受けたりしている。昭和初期にして、90年代の今と同じやりとりが既に行われているのだから、まったく彼らは逞しい。この作品の監督のOscar Micheauxという男は24年には「白人の求める黒人像」に近づこうとする黒人を批判する、「Birthright」という作品をも作っている。現代のブラックムービーのテーマは、すでにこの時代から始まっているというのは実に驚くべきことである。
しかし20年代後半から恐慌の時代が始まり、さらに30年代にはサイレントに替わりトーキー映画が主流になったため、資本の乏しい黒人映画会社はその波に乗ることができず、次々に姿を消していった。
1940年代から始まるハリウッドの黄金時代には、黒人はすっかり姿を消していた。ハリウッドの圧倒的な権力は、マイノリティの市場なんか必要としていなかったし、ましてやマイノリティの制作者なんかお呼びではなかった。公民権運動が盛んになった60年代には白人制作による人種問題を扱った作品もいくつか登場し、黒人の俳優たちも活躍した。しかし、再び黒人が監督の座に返り咲くのは1967年まで待たねばならない。
1967年のサンフランシスコ国際映画祭で批評家賞を受賞したのはフランスから出品された「Story Of Three Day Pass」という作品。ところがこれが、制作者はハリウッドから排斥されたアメリカの黒人、Melvin Van Peeblesだった。アメリカのマスコミはこれを「ハリウッドの恥」と書き立て、帰国したMelvinの元には仕事の話が一斉に舞い込んだ。しかし彼は、自分がこの仕事を一手に引き受けてしまったところで何の状況の解決にもならないことを知っていた。他の黒人の監督にも仕事が行くまでは、自分は仕事を受けない。そう言って、彼は2年近くもすべての仕事を断り続けた。69年にはやっと大手コロンビアの仕事を受け、「Watermelon Man」を制作するが、Melvin以外のスタッフのほとんどを白人が占めることで結果的にMelvinの意図は湾曲されてしまい、彼の満足のいく作品には仕上がらなかった。
白人に余計な口出しをされずに映画を作りたい。彼は結局インディーの道へ進むしかなかった。そして、ほとんど素人同然のスタッフたちとわずか19日で制作されたのが「Sweet Sweetback's Badasssss Song」である。しかし、映画は出来たものの、インディーの黒人映画なんてどこの配給会社も相手にしてくれない。やむなくポルノ映画の配給会社に委託し、デトロイトとジョージアの2館のみで、「Rated X(X指定=成人指定)」という制約付きでなんとか公開に至った。これは内容が猥褻だからというよりは正規のルートを通せないが為につけざるを得なかった制約で、Melvinはこの点を徹底的に糾弾し、全米映画評議委員会とその会長を訴え、みずからマスコミを巻き込んでいざこざを起こした。それ自体をうまくプロモーションとして活用し、Melvinは大勝利を納めた。デトロイトとジョージアの2館では観客動員新記録を樹立、さらに続々と入るオファーによってその後200館以上に拡大、全米興業収入ランキングの1位に躍り出た。
これは黒人青年が警官をぼこぼこにぶん殴って逃げ回り、結局最後まで逃げ仰せて、「借りを返しにいつか戻ってくるぜ」とかいう台詞をはいて終わるというストーリー。被抑圧者であり、かつ犯罪者である黒人青年を映画のヒーローとして扱い、しかも最後の「これから一体黒人たちはどこへ行くのか」という世間の不安を煽るような台詞。明らかに反体制のこの作品は、しかし、黒人映画も金になることを証明した。ラップと同じだ。それまでは社会のゴミ扱いされていても、誰かが一発当ててくれれば、その後はすべてのメジャー会社が追従するのである。
サントラが大ヒットしたことでも有名な「Shaft(黒いジャガー)」や「Superfly」、「Black Caesar」といったアクション物が量産された。ファンク系のミュージシャンが全編にスリリングな音楽を提供するという点までみんな一緒だった。
当然、これではしだいに内容は低下し、観客も飽きてくる。一気に盛り上がったブラックムービー熱は、70年代半ばにはすっかり冷めてしまった。
70年代後半でインパクトがあるのはRose Royceが主題歌をNo.1ヒットにさせた「Car Wash」ぐらいしかない。それは、ちょうどブラック・ミュージック全体の潮流とも、あるいは黒人社会全体の風潮ともリンクした動きである。ブラック・ミュージックは70年代中頃からディスコ・ブームの波に飲み込まれ、低迷期へと陥った。黒人社会も、公民権運動とその後の街角や法廷での闘争という「闘争の時代」を一通り終えて、「融和(インテグレーション)の時代」へと入っていった。それは、「闘争の時代」に勝ち取った公的な援助をバックに、黒人たちが社会のメインストリームへと進出した時期である。もちろん、だからといって従来から黒人社会にあった問題が解決されたわけではないのだが、レーガン政権というのが問題をうまくオブラードで隠すのが上手で、アメリカという国全体が「強くて寛大なアメリカ」という雰囲気に酔っていた時期だったため、貧困や麻薬や犯罪といった話題に触れるのを誰もが暗黙のうちに避けていただけである。現在もなおラップされ続けているゲットーの荒廃ぶりは、10年以上も前の82年にはすでにGrandmaster Flashが「The Message」の中で強烈に訴えているのである。
80年代に入ってブラック・ミュージック界ではファンクの隆盛やラップの登場などで多少活気づく。特に84年頃はブレイクダンスの流行でヒップホップ文化が注目され、ブラックムービーも「Beat Street」「Krush Groove」「Tougher Than Leather」など、それ絡みの作品がいくつかそれなりにヒットした。しかしこれらは当時の流行・風俗文化を鮮明に描いてはいるが、それ以上の価値のあるものではない。
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