1989-1991
88年に手掛けたボビー・ブラウン、キャリン・ホワイト、ザ・ボーイズらが連続ヒットを出してくれたお陰で、89年前半の空白期間も、ベイビーフェイス作品はチャートを荒らした。この間、ベイビーフェイスは自分自身のセカンド・アルバムの制作に専念していた。
セカンド「Tender Lover」は、まさにこの時期のベイビーフェイスの集大成的な作品となり、アップテンポの「It's No Crime」「Tender Lover」、スローの「Whip Appeal」いずれもトップ10級のヒットとなった(R&Bチャートでは順に1位、1位、2位)。しかし注目に値するのは、その後第4弾シングルとしてカットされ、大きなヒットにはなからなかった「My Kinda Girl」である。これまでの彼独特のねちっこいメロディラインではなく、明るく親しみやすいメロディは、後のトニ・ブラクストンやボーイズIIメンの大ヒット作品を予感させる。アップテンポとスロー、それぞれ似たような作品ばかりを量産し、そろそろ「ツーパターン男」という陰口を叩かれ始めた時期の初めての「変化球」だった。
ベイビーフェイスが、後に奥さんになる女性と出会ったのはこの頃だ。「Whip Appeal」のプロモ・ビデオ出演者のオーディションに臨んだトレイシーは、オーディションには合格しながらも、事情があって実際には出演できなかった。しかしベイビーフェイスに気に入られた彼女には、次のビデオ、「My Kinda Girl」の主役が回ってきた。彼女はベイビーフェイスにとって現実世界の「My Kinda Girl」だったのだ。
そして、89年にはもう一つ、彼にとって大事な作品があった。彼の実の兄二人と、L.A.リードの従兄弟という身内グループ、アフター7だ。メンバー曰くそもそもグループの名前の由来が「ベイビーフェイスは仕事が忙しすぎて、俺達は夜の7時以降しか相手にしてもらえなかったんだ」ってんだからいい加減なもんだが、しかしそういう「時間外」の、本来はプライベートな時間を仕事に充ててもらえたのは、身内ならではの特権だろう。
ベイビーフェイスが最初に音楽に身を投じたのは、兄たちのバンドへの参加だった。兄たちは、音楽面でもベイビーフェイスより先輩なのだ。しかしこのアフター7のファーストアルバムは、完全にベイビーフェイス(&L.A.リード)の色に染められた。楽曲的に他のアーティストに提供された作品となーんにも変わるところがなく、アフター7というグループの個性も見えてこなかった。これでは「弟の七光」と陰口を叩かれたのも無理はない。
しかしアフター7はとんでもない実力派であることが後に判明した。91年に映画「The Five Heartbeats」サントラに提供した「Nights Like This」が素晴らしいソウル・ナンバーだったので、こいつら、やればできるんじゃないか、とは思っていた。
92年のセカンドアルバム「Takin' My Time」ではベイビーフェイスがすっかり身を引き、代わってダリル・シモンズとダラス・オースティンが仕切った。そして、素晴らしいソウル・アルバムとなった。70年代ソウルの名曲のカバー「Baby I'm For Real / Natural High」(R&B5位、ポップ55位)を聴けば、こいつらがそれぞれのオリジナル・アーティストと並ぶ、いや超えるかもしれない実力派であることが分かるはずだ。まあ、セカンドでベイビーフェイスの手を離れたのも、たまたまどうしてもスケジュールの都合がつかなかったからだそうで、サードアルバムからまたベイビーフェイス主導に戻るんだけど。


大ブレイク作となったセカンド。もう30になるというのにこのティーンエイジャーのような顔は凄いな。毛が薄くて、ヒゲの跡が全然ないからかな。胸をはだけたこの写真でも、ツルツルだし。 左のアルバムのLP版のジャケ。あんまり、だからどうだということはない。 なんか日本人にこういう奴いるよなあ。案外日本で真面目に売り出したら、親近感もたれてウケたりして。このアルバムはセカンド収録曲を中心とするリミックス集。



さて話を元に戻して、90年。この頃のR&B界の話題は何と言ってもニュー・エディションの各メンバーのソロ活動の相次ぐ大成功。一足先に大スターになったボビー・ブラウンに続き、ラルフ・トレスヴァント、ジョニー・ギル、ベル・ビヴ・デヴォーがいずれも大成功を収めた。彼らの大成功の陰にはジャム&ルイス、テディ・ライリーといった一流プロデューサーのサポートがあったからこそだが、このうち、LA&ベイビーフェイスがプロデュースしたのはボビー・ブラウンとジョニー・ギルだ。
ルックスやダンス先行のボビーと、実力派シンガーのジョニーという正反対のキャラだが、意外にも両者とも成功をおさめた。
ジョニー・ギルは、ボビー・ブラウン脱退後のニュー・エディションに補充メンバーとして88年に加入した。しかしその時点ですでに5年もソロ活動していた実力派で、ボビーの後釜とは言ってもタイプはまったく違った。メンバー最年長でもあり、業界経験も長く、何よりもグループで唯一の「本格派シンガー」であった彼は、ニュー・エディションを大人のグループへと移行させる役割を担った(それをプロデュースしたのがジャム&ルイス)。
本格派。実力派。ソウル・シンガー。実はベイビーフェイスはこういう作品を手掛けたことがなかった(ごく初期にウィスパーズと関わっていたのを唯一の例外として)。とにかくL.A.とベイビーフェイスが用意した曲を、彼らが用意したカラオケに乗せて、彼らが指導する通りに歌ってくれればそれで良かった。アーティストの個性などいらないし、人並み外れて歌が上手い必要もなかった。 しかしここで、自己のスタイルを持ち、充分な実力を持つソウル・シンガー、ジョニー・ギルをプロデュースすることになった。彼にも金太郎飴ソングを提供し、独特のベイビーフェイス節を歌わせるのだろうか。違った。彼は初めて、「アーティストに合わせた」のだ。これまで、彼は、頑ななまでにアーティストを自分のスタイルに合わせさせてきた。だから彼の曲を歌うシンガーはみんな彼と同じ節回しで、同じような曲ばかりを歌ってきた。この点が、アーティストに合せてそのスタイルを自在に変化させるジャム&ルイスとの最大の違いだと言われた。
ジョニー・ギルはベイビーフェイスを変えさせた。「My My My」がベイビーフェイス作品だなんて信じられるだろうか。ベイビーフェイスの片鱗をも感じさせない情感たっぷりのヴォーカル・スタイルに、これまでのベイビーフェイスの「パターン」にはなかったこの曲調。単に共同作曲&プロデュースのダリル・シモンズが頑張っただけだという噂もあるけどね(けっこう信憑性有り)。
しかしベイビーフェイスはこの路線を進んでいくわけではなかった。
彼がこれまで手掛けてきたどのアーティストと比べても破格のビッグ・スターである、ホイットニー・ヒューストンのサード・アルバムの製作依頼が舞い込んだ。ファースト、セカンドアルバムをそれぞれNo.1ヒットにし、R&Bチャートで11曲のトップ5ヒット、ポップチャートで7曲のNo.1ヒットを生み出した、まさに時代のトップ・スターだ。センスに若干疑問はあるものの、シンガーとしての実力には非の打ち所がない。
しかしL.A.&ベイビーフェイスは、笑っちゃうぐらいうろたえなかった。むしろホイットニーを手玉に取ったとさえ言えるだろう。ファーストシングル「I'm Your Baby Tonight」。ベイビーフェイスが手掛ける25曲目の、ポップチャートにおけるトップ40ヒット。そして、意外にもこれが初のNo.1ヒット(R&Bチャートではこれが17曲目のNo.1)。誰が聴いてもベイビーフェイスというメロディに、あれだけ実力のあるホイットニーが、シンガーとしては遥かに格下であるベイビーフェイスの歌唱指導を忠実に受け入れて、「ベイビーフェイス節」で歌っているのだ!これにはもう笑いを通り越して寒気を感じる。「My My My」の大成功はやっぱりダリル・シモンズの力であって、ベイビーフェイスが変わったわけではなかったのだ(別表で、ダリル・シモンズが関わっている作品は、他の作品とはひと味違うことを確認されたい)。
案の定このアルバムからはたくさんヒットが生まれたが、しかしホイットニーにしては(前2作と比較して)商業的な失敗作だし、「Miracle」のようないい曲もあるにせよ、内容的にも駄作と呼ばれても仕方ない作品である。
L.A.&ベイビーフェイスは相変わらずトップ・プロデューサーとして君臨していたが、もはや彼らの生み出す作品には何の魅力もなかった。
91年は、チャートの上では彼はおとなしかった。遂に自分自身のレーベル、LaFACEを設立(その名前はもちろんL.A.とベイビーフェイスの名前をくっつけたもの)。その契約第1弾アーティスト、ダミアン・デイムという新人デュオをいきなりR&BチャートのNo.1に送り込んで大成功させたが、ポップチャートでは全くウケなかった。また、ジャーメイン・ジャクソンが再起を狙ってベイビーフェイスを起用したが、商業的にも全く振わなかった。
もういい加減行き詰まったんだろう。このまま消えていくんだろう。そうやって甘く見ていた、私のほうが甘かった。


■ Introduction
■ 1983-1986
■ 1987-1988
■ 1992-1993
■ 1994-1995
■ 1996-
■ Chart Data 1983-1998


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