| 1987-1988 | ||||||
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87年、彼はヒットメーカーとしての第一歩を踏み出す。 まず、彼がソングライターの一人に名を連ねた「I'd Still Say Yes」が、クライマックスによってポップチャートで18位まで上がるヒットとなり、これがソングライターとしてのケニーにとって初のトップ40ヒットとなった。クライマックスは既に「I Miss You」などのヒットで、当時最も成功していたR&B女性グループのひとつだった。もともとケニーらと同じSOLARレーベル所属だったところで人脈のつながりがあったのだろう。 続いて、付き合いの長いウィスパーズに提供した「Rock Steady」はケニーがソングライターとしてR&Bチャートに送り込んだ10曲目のヒットとなり、これが遂にNo.1ヒットとなった。この曲はポップチャートでも7位まで上がる、初のトップ10ヒットとなった。ウィスパーズは60年代末からか活動するベテラン・ボーカル・グループで、「Rock Steady」は彼らにとってR&Bチャートでは36曲目のヒットとなる。しかしポップチャートではなかなかヒットに恵まれず、トップ40ヒットとなるのはこれが4曲目だった。 この年は他にも、レーベルメイトのシャラマーにも曲を提供(&プロデュース)しており、R&Bチャートではヒットしている。そして、自分のグループ、ディールも新作を出した。 このアルバム「Eyes Of A Stranger」では、アルバムのほとんどの曲にソングライターかプロデューサーとして関与したが、シンガーとしての出番はだいぶ抑えられた(その不満が彼をソロアルバム制作に向かわせたのは、既に書いた通り)。まあ誰が聴いてもベイビーフェイスのボーカルは決して達者ではないので、仕方ないことではある。結局彼がリードボーカルをとっているのは、アルバム中1曲だけなのだが、その「たった1曲」はまさに棚ボタだった。アルバム用に用意された曲の中でメンバーが「これはヒット間違いなし」と自信をもっていたのが「Two Occasions」だが、なんとこのレコーディングの当日、ヴォーカルを入れる予定だったメンバーがスタジオに来なかった。で、急遽代役を務めたのがケニー。これはメンバーの目論見通りのヒットとなり、R&Bチャートで4位、ポップチャートでも10位まで上がる大ヒットとなった。
更に87年も暮れようという頃には、新人女性シンガー、ペブルズがケニーの作・プロデュースによる「Girlfriend」をR&BチャートのNo.1、ポップチャートのトップ5に送り込んだ(既にキャリアのあるアーティストではなく、新人に曲を提供するのはこれが初めてだった)。ペブルズは後にL.A.リードと結婚し、TLCを発掘してくるなど、ベイビーフェイス帝國を拡大していくのに一役買うことになる。 およそ1年の間に3曲のトップ10ヒットを生んだベイビーフェイスというプロデューサー/ソングライターが、俄然注目を集めた。そして翌88年、彼の名声を決定的にする一連のヒットが生まれる。 69年生まれのボビー・ブラウンは、ティーンエイジ・アイドル・グループ、ニュー・エディションの中でもとくに人気が高かった。悪ガキっぽいところが女の子の人気を集め、「Cool It Now」「Mr.Telephone Man」などの一連のヒットのあとにグループを脱退、86年にソロデビューしてからも、その人気は続いた。但し、R&Bという限られたマーケットの中で。ソロデビューシングル「Girlfriend」はR&Bチャートでは1位になったものの、ポップチャートでは57位で終わった。しかし18〜19歳のときに制作されたセカンドアルバムで、彼の人気は爆発した。そのきっかけとなったのが、88年夏の大ヒット「Don't Be Cruel」。ベイビーフェイスがLAリードと共に提供したこの曲は、R&BでNo.1に、ポップチャートでもトップ10ヒットとなった。 ボビーの次のシングル「My Prerogative」はベイビーフェイス作品ではなく、当時同じように頭角を現しつつあった若手プロデューサー、テディ・ライリーの手によるものだったが、それ以降のシングル「Roni」「Every Little Step」「On Our Own」「Rock Wit'cha」はいずれもベイビーフェイス作品で、どれも大ヒットとなった。 ボビー・ブラウンの爆発的な人気はそのサウンドだけではなく、彼のダイナミックなダンスやファッション性なども大きな要素で、日本の若者がみんなで黒人のファッションを真似るようになったのは、間違いなくボビーがきっかけだった。当時日焼けサロンにせっせと通い、短く刈ったパーマに、わざとだらしないダボダボの服を着て、じゃらじゃらと金のアクセサリーをぶら下げた若者が街に氾濫し、彼らは「ボビ男」と呼ばれた。しかしその人気を支えたのは、やっぱり、ベイビーフェイスの非常に良くできた楽曲群だ。いくらかっこ良くても歌ってる曲がダサダサでは爆発的な人気は望めない。 ベイビーフェイスは、彼自身、ボーカリストとしては非常に頼りない。声が細くて、感触がのっぺりしているので、非常に感情表現が豊かなシンガーの多いR&Bの世界では、ほとんどお話にならないぐらいのレベルだ。シンガーとしてそういうタイプなので、彼の書く曲も、軽い感じで、あまり実力派のシンガーが思いっきり歌い込むようなタイプの曲ではない。ボビー・ブラウンは、そんな一連の作品と非常に相性が良かった。フットワークが軽く、軽薄そうな彼のボーカルは、ベイビーフェイス作品とベストマッチだった。 88年末になると、もはやベイビーフェイスはすっかり「売れっ子」になっていた。当時最年少メンバーが9歳というガキ・グループ、ザ・ボーイズの「Dial My Heart」、セッション・シンガーを経てデビューした女性シンガー、キャリン・ホワイトの「The Way You Love Me」、翌89年に大ブレイクすることになる新人、ポーラ・アブドゥルの「Knocked Out」(ポップチャートでは41位止まりだが、R&Bではトップ10ヒット)を次々にヒットさせた。また、初めて手掛けた白人シンガーであるシーナ・イーストンの「The Lover In Me」もポップチャートで2位まで上がる大ヒットとなった。中でもキャリン・ホワイトはその後「Secret Rendezvouz」「Superwoman」とトップ10ヒットを連発し、ボビー・ブラウンに次ぐ成功を収めた。 これら一連のヒット曲はすべてL.A.リードとの共同プロデュース、作曲でも半分ぐらいは彼との共作となっており、ちょうど同時期にジャネット・ジャクソンなどを大当たりさせたジャム&ルイスとは同じコンビ形態ということもあって、ハタからはライバルだと言われた。奇しくもキャリン・ホワイトは、セカンド・アルバムの制作をそのジャム&ルイスに委ね、さらにテリー・ルイスと結婚してしまうという「裏切り」を見せてくれた。まあ90年代になってからまたベイビーフェイス作品を取り上げたりしているので、別に険悪な感じはないんだろうけど、何か後のトニー・ブラクストンの「裏切り」を思わせるものがないこともない。 リズムトラック担当のL.A.リードとの共作が多かったせいか、この頃の彼の作品はアップテンポのダンス物が多い。しかしごく初期の作品群や、L.A.リードと袂を分かってからの作品群には圧倒的にバラード物が多いことから、やっぱりこの時期は「時代の流行」と「L.A.リードの意向」がかなりベイビーフェイスの作風に影響を与えていたと言えよう。この時期のこの手のサウンドはベイビーフェイス作品に限らずどうもチャラチャラした軽い感じのアレンジが多く、今聴くとどうしてもチープに聴こえてしまう。そんな中、クライマックスの「I'd Still Say Yes」やキャリン・ホワイトの「Superwoman」といったスロー・ナンバーは、楽曲の良さで、今でも充分に聴ける。 |