| 1983-1986 | ||||||||||||
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まずは無名時代のベイビーフェイスから。 彼は1959年、インディアナ州インディアナポリスの生まれ。来年40歳になる彼のレコードデビューは1977年だから、もう人生の半分以上を音楽業界で過ごしていることになる。 エドモンズ(Edmonds)家の三男(全部で6人兄弟)として生まれたKennethはシャイで内気な子供だった。 「子供の頃は、モハメッド・アリになりたいと思ってた。でも、ある日ケンカになって、お尻を思いっきり蹴られた時、僕には向いていないと思ったんだ」 11歳のときに初めて曲を書いたが、それは好きな女の子に贈ろうと思って書いたものだ。しかしなかなか言い出せずにグズグズしているうちに彼女は引っ越していってしまい、失意のケニー少年は何か他に打ち込む物を求めた。それが音楽だった ...のだそうだ。 彼の兄たちもまた、音楽が好きだった。後にアフター7としてデビューするケヴォン、メルヴィンは高校時代にバンド活動をしており、ケニーもそこに参加させてもらった。兄弟で一緒にバンドをやるというのは英米では非常によくある話だが、日本ではあまりない気がする。 この活動を経て、地元のターニシッド・シルヴァー(Tarnished Silver)というバンドに参加して、初めて「本格的な」音楽活動に入った。この時代にはとくにヒットも出ず、無名ローカルバンドとして終わったが、77年にターニシッド・シルヴァーを脱退して、同じく地元のマンチャイルド(Manchild)に加入、ここで初めてヒットが生まれた。まあヒットとは言ってもインディアナポリスを中心とするエリアでのローカルヒットで、R&Bチャートで70位まで上がるのが精一杯だった。 なおこのバンドでのケニーの担当はギター&ヴォーカル。そう、彼はもともとギタリストなのだ。今にしてみれば、マンチャイルド時代の最大の収穫は、その後ずっと友として、ライバルとして第一線で共に活動することになるダリル・シモンズと出会ったことだろう(ダリルはドラマー)。また、バンドのリーダーだったレジー・グリフィンも90年代に到るまで、クインシー・ジョーンズやホイットニー・ヒューストン、アイスリー・ブラザーズといった超一流どころと仕事をする著名ミュージシャン/プロデューサーとなる。
コネの面で収穫は多かったマンチャイルドだが、その後ヒットらしいヒットもなく、79年には解散してしまった。ケニーは今度はクラウド・プリーザーズ(Crowd Pleasers)というデトロイトのグループに加入する。なんかゴスペルグループみたいな名前だ。ちょうどケニーが参加する前に1曲、R&Bチャートの71位まで上がるマイナーヒットを出したところだった。が、ここでもその後は泣かず飛ばず。ケニーはよほど義理堅いのか、この時代のバンドメイトとも未だに一緒に活動している(ホイットニー、ボビー・ブラウン等の作品のスタジオ・ミュージシャン/エンジニア)。 83年、4年間活動を共にしたクラウド・プリーザーズを脱退した彼は一時的にエイプリル(April)というバンドへの参加を経て、オハイオ州シンシナティのバンド、ザ・ディール(The Deele)に参加する。「クラウド・プリーザーズはレコード契約がなかったから」が理由だそうで、義理堅いんだか冷たいんだか分からない奴ではある。 ちなみにエイプリルというバンドの存在はごく最近まで関係者以外には知られておらず、最近になって当時のバンドのメンバー自身がベイビーフェイス・ファンの運営するホームページに情報を寄せたことで発見(?)された。 ディールは当時非常に勢いのあったSolar (Sound of Los Angeles Records) レーベルに所属し、これまでのバンドに比べると格段にメジャー(になる可能性をもつ)バンドだった。 ケニーは何人かいるヴォーカリストの一人(兼ギター&キーボード)であり、83年のデビューアルバム「Street Beat」では3曲を作曲し(うち2曲は共作)、その中から「Just My Luck」がそこそこのヒットになった。このアルバムからは「Body Talk」がR&Bチャートで3位まで上昇する大ヒットとなったが、ケニーは関与していない。 何しろこのバンド、この頃はオハイオ・プレイヤーズ、サン、ザップあたりのオハイオ・ファンクの流れを汲むファンク・バンドだったのだ。音楽的にケニーが貢献できることはあまりないのは、仕方ないところだろう。 レーベルメイトであるウィスパーズに曲を提供する機会があり、R&Bチャートではそこそこのヒットになった。また、ミッドナイト・スターの大ヒットアルバム「No Parking On The Dance Floor」にも曲を提供していたが、まだまだケニーの名を全米に知らしめるには遠く及ばなかった。 たぶん、この頃、ケニーに「ベイビーフェイス」というあだ名がついた。よく知られているように名付け親はP-ファンクの番頭、ウィリアム・ブーツィ・コリンズ。たまたまケニーがスタジオのある部屋に入っていったら、そこにブーツィたちがいて、ブーツィがからかって「Yo, what's up, babyface ?」と声をかけたのが由来らしい。この頃はまだ20代前半だから、ほんとに子供みたいな顔をしてたんだろう。それを聞いたディールのメンバーが面白がって、ステージで彼のことをベイビーフェイスと紹介するようになって、定着したとか。しかし、「ケニー・エドモンズだと紹介されてた頃は、誰も見向きもしないって感じだった。ところがベイビーフェイスと紹介されるようになってから、女の子たちが楽屋に押し掛けるようになったんだよ!」という本人の弁はどうも怪しい。 85年のアルバム「Material Thangz」でケニーは躍進する。アルバムの半分以上の曲でソングライティングを手掛け、何曲かプロデュースもした。そのうちの1曲であるタイトル曲は、アルバムからの最大のヒットとなった。また、後にトゥループがカバーしてR&BチャートでNo.1となった「Sweet November」なんていう佳曲も生んでいる。これは、バンドの体質そのものが時代の流行に合わせてファンクからポップR&Bへと軟弱化したため、そっち方面が得意なケニーの出番が増えたのだと解釈できる。 しかしこのアルバムジャケ...。ファーストアルバムはいかにもファンク・バンド然とした、男くさい感じだったのだが、ここでは原色のカラフルな衣装に身を包み、お化粧までしちゃってるよ、おい。まあこの時代はあのドクター・ドレでさえお化粧したアイドルだったことを思えば、ベイビーフェイスが軟弱な格好をしてたからと言って責められまい。しかしこの写真だけじゃデバージと区別がつかんぞ。 86年、彼はソロアルバムの制作を決意する。ディールの中ではケニーはあまり歌わせてもらえず、87年にリリースが予定されていたアルバムでも、彼がメインで歌わせてもらえるのは1曲だけと決まっていた(このアルバムについては次章で)。彼はプロデューサー、ソングライターとして有名になるわけだが、この頃の彼はシンガーとしての成功を目指していたんだろうね。 無事リリースされたソロアルバム「Lovers」からは「I Love You Babe」がR&Bチャートのトップ10に入るヒットとなり、マイナーヒットも含めて4曲がヒットした。しかしポップチャートのほうではまったくウケず、まだこの時点でもベイビーフェイスは全国レベルで見ればまったく無名の存在だった。 (再び)しかし、このジャケ... カラフルな風船に囲まれてケニー君がにっこりと微笑む姿。レコード会社が、彼をアイドルとして売り出そうとしたのは明らかだ。後の再発盤ではジャケが差し替えられてしまっているので本人も恥ずかしいのだと思うが、彼にもこんな時代があったんだと思うと微笑ましいね。この時ベイビーフェイスは28歳、レコードデビューからちょうど10年目。 この頃ケニーの書いた曲、プロデュースした曲はほとんどディールの他のメンバーとの共作だ。中でもダントツに出番が多いのが、ディール脱退後も活動を共にすることになるアントニオ "L.A." リードことマーク・ルーニー(Mark Rooney、ドラマー)だ。彼はケニーが加入する前からのディールのメンバーだったが、ドラマーだけあってリズムに強く、メロディをケニーが、リズムトラックをL.A.リードが担当するという分業体制が、この後何年も続くことになる。また、ベーシストのケイヨ(Kayo)ことケヴィン・ロバートソンもその後ずっと活動を共にしている。こうして見ると、L.A.、ダリル・シモンズ、ケイヨなどなど、後のベイビーフェイス・サウンドを支えた関係者たちは、みんな昔のバンドメイトだったことが明らかになる。
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