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DRUKQS
(2001, Warp/Sire) |

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エイフェックス・ツインの、実に5年ぶりとなるアルバム。2枚組全30曲。相変わらず、表面上は柔らかい鍵盤楽器系の音を使いながらも、炸裂するビートが神経質に暴れ回る。
音楽から「感情」を感じるとき、たいていはボーカルの声から、それを感じるだろう。ギターやサックスの音に感情を込める、ブルースやジャズのような音楽もあるが、一般論として、人間の直接の、ナマの表現である「声」に勝る感情表現手段はない。エイフェックス・ツインの音楽に、ほとんど「声」は登場しない。ほとんどの音は、エイフェックス・ツインことリチャード・D・ジェームスが鍵盤に向かって弾いた音である。それなのに、リチャードの音楽を語る上ではいつもリチャードの性格がどうのこうのという、彼の人物論に行き着く。
すなわちリチャード・D・ジェームスという人間は、鍵盤を通じ、電子化された音を通じ、自らを表現することの天才なのである。手の不自由な人が、足の指でペンを持ってスラスラと書いてみせる。あの衝撃に近いものを、私はここに感じる。これもまた、形を変えたソウル・ミュージックである。(しんかい)
とても、とても孤独な音楽だ。テクノやハウスなどの、ダンスフロア・オリエンテッドな音楽というものは、一概に言って、プレイヤーやDJとクラウドが同時に解放感やエクスタシーを感じることによって、その空間の一体感を共有するというのが、大勢の楽しみ方である。そんな考え方からすると、エイフェックス・ツインことリチャード・ジェイムスの音楽は、表層的なスタイルこそテクノであるものの、その志向するものは真逆にあると言わざるをえない。エイフェックスのビートは、人の神経を逆撫でし、苛立たせ不安にしたうえで、人々の意識を分断し孤立させる。だからこそ彼のパフォーマンスに合わせてフロアでいくら踊ろうとも、その意識は内向し、けっして解放へと向かうことはない。つまり、エイフェックス・ツインはテクノのカリスマであるだろうが、シーン全体から見ると、見事に孤立している。そのエイフェックス・ツインの新作はCD2枚組というボリュームである。ミックスCDをボーナスとしてオマケに付けた2枚組というのは、今さら目新しくもないが、前作のEPから2年ぶりとなるこのアルバムは、すべて新録で構成されている。その内容だが、前作までの暴走するビートにグラインダーをかけたような、言うところのドリルン・ベースと、つたないピアノ演奏の小品が交互に繰り出されてゆく。そのよるべなさは、いっけん前作までの露悪趣味を拭払したように見えるが、その振幅が極端なだけに、作者のコワれ方も今まで以上に尋常でない印象を受ける。アルバム全体の出来としては、今までのどのアルバムよりも散漫だが、「ホワイト・アルバム」のように、どれよりも作者の実像に迫れるという点では、以前の作品を軽く凌駕する。このひたすら自閉する音楽は、確かにテクノではあるが、この音像が作り出す世界にもっとも近いのは、テクノやハウスのミュージシャン、またはそれらの極北たるスーサイドやアタリ・ティーンエイジ・ライオットよりも、むしろトレント・レズナーのナイン・インチ・ネイルズのそれだろう。もはやダンスフロアの機能主義からはもっとも遠いところに来てしまったリチャード・ジェイムスだが、彼が作る音楽はそのスケールを超えている。(Yaz)
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COME TO DADDY EP
(1997, Warp/Sire) |

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30分強収録、8曲入りEP(うち3曲は同曲の異なるバージョン)。これで1165円(日本盤)というのは良心的だ。1曲目はたたきつけるような暴力的な音で、刻々と変化していく不安定なトラックにのせて、ホラー映画の「悪霊」の声みたいな潰れた喉で叫ぶようなボーカルがのっかる。気分が乗らないときに聴いてしまうとものすごく不快な曲だ。しかし残りの曲で安心。空を流れる雲のように、少しづつ変化しながらゆるやかに流れ、二度と同じ形を繰り返さないビート。さらにその上を、柔らかい鍵盤の音色が流れる。
爽やかな青空だけではなく、時には曇だったり、雨雲だったりもする。最先端技術を使った電子音楽だって、結局、究極まで突き詰めれば自然音に近いものになる。どんなにあがいたって、人間が自然を越えることはできない。彼は限界や常識を破ろうとしているのではない。ただ、普通の人々が普段意識することのない「人間の限界」が見えているだけだ。エイフェックス・ツインは、その中を自由にのびのびと泳ぎ回る。(しんかい)
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